Distance   001





















 「……先輩、……先輩、」
 その呼び声に、ウルキオラは眠りから現実の世界へとゆっくりと戻ってきた。呼んでいるのは、一学年下のイールフォルトだ。
「先輩。もう時間、」
「んん……あと五分、」
 ウルキオラはそう呟くと、再び毛布に潜り込む。
「それ、さっき三回も云ったよ。……ホラ、毛布にくるまる前に、顔を洗いに行って、」
 無理矢理イールフォルトに立たされ、ウルキオラは洗面所に向かおうとする。焦って、イールフォルトが止めた。
「先輩、……服、着て。襲っちゃうよ、」
「……ん? ……・ああ、」
 ウルキオラは目がしっかりと覚めていない為、自分が一糸も纏わぬ姿であることに気付かない。目のやり場に困ったイールフォルトが、慌ててワイシャツを着せる。
 その途中、イールフォルトがウルキオラの鎖骨を撫でた。
「先輩、痕、残ってる。」
「……お前が残したんだろ。」
 ウルキオラの鎖骨や胸に散る朱は、昨晩、イールフォルトが唇を寄せた痕だ。ウルキオラはもともと肌が白い上に鬱血しやすい体質なので、痕が残りやすい。それを知っていて、イールフォルトはわざと痕を残すのだ。
 イールフォルトは、満足した気持ちで自身の先輩が洗面所に行く姿を見つめた。
 ウルキオラが顔を洗い制服を着込んでくる間に、イールフォルトはホットミルクを湧かした。もうスクランブルエッグは出来ているし、パンも焼けている。
 イールフォルトが一人暮らしのウルキオラのマンションに泊まる時の、日課だ。ウルキオラが目覚める前に、有る程度の朝御飯を用意する。それから、ウルキオラを起こす。彼は低血圧なので、起きるまで大層時間がかかる。


 こういった生活を、週に二度ほど送る。






 どちらが年上なのかもう解らない状態だが、ウルキオラは高校三年生、イールフォルトは二年生だ。




















「……今日は休む。」
 と、ウルキオラがパンを頬張りながら呟く。今日も可愛いなと思いながら、その可愛さに騙されてはいけないと己を叱咤する。
「先輩、今日は大事な日だから絶対来てって、もうずっと前から云ってるでしょ。」
「……何の日、」
 矢張り記憶されていないのだと肩を落とす。
「俺の、生徒会会長着任日。今日の集会で、全校生徒の前で就任演説するって、」
 初耳だというような、己の先輩の表情。
「……俺、先輩に恰好良いトコ見せようと思って、頑張っているのに、」
「大丈夫だ。お前を恰好良いと思ったことなんて、髪の毛一本ほどもないから。」
「俺は、毎日先輩を可愛いと思ってるよ、」
「俺は、お前を口の軽い阿呆野郎だと思ってる。」
 いつも好きだの可愛いだの、どうでも良い事ばかり口にする。
 もともとイールフォルトは誰にでも良い顔をする。しかし、それは媚びていたり猫を被っているわけでもなく、人が良いということだ。ただ、ウルキオラにとっては八方美人にしか見えない。
 あまり、口の軽い奴というか、人に甘言を吐く輩が好きになれない。それは、ウルキオラが口下手であることを無意識に自覚した反動かもしれないが。
 イールフォルトはいつものことながら、ウルキオラの仕打ちに意気消沈した。
 御飯を食べ終わり学校へ行く支度をし、イールフォルトは自転車の後ろにウルキオラを乗せて学校へ行く。
 二年生と三年生の玄関は分かれているので、自転車置き場の処で二人は別れる。
「先輩、今日の演説、絶対聞いていてよ。」
「……気が向いたらな、」
 もう一度、イールフォルトは絶対、と念を押した。
 はいはいと頷きながら、多分集会にはでないだろうとウルキオラは思っていた。




















イールフォルトは入学した当時から目立つ生徒だった。
 まず何よりも人目を惹いたのは、その容姿だった。母親が外国生まれだということでハーフであり、端正な鼻梁に、まるで絹のような長い髪。見掛けだけかと思えば、それを裏切る性格。容姿の所為か話しかけにくいと思えばそうではない。気さくな人柄に、優しい物腰、穏やかであまり感情的にならないし、だからといって冷たい感じはしない。クラスの代表を買って出たりするところなどで、行動力もあり人望も厚い。成績は常に上位十位以内。いわゆる、絵に描いたような完璧な人間だった。
 無論、こんな男に想い寄せる女子生徒も少なくはない。しかし、それでも男子生徒に恨みや妬みを買ったりすることはなく、彼を悪く云う人は少ない。
 そんな彼は、生徒会会長に立候補し、圧倒的多数で見事当選した。二年生の十月から、彼は新しい生徒会会長として就任する。
 今日はその着任演説会だ。
 演説の原稿は作らない。暗記だけというのは何だか中身がないようにも思えるし、棒読みになりがちだからだ。いかにも練習してきました、という様子を見せたくはない。
 演説を終えて、左の方の三年生の席をチラリと見る。三年C組、前から八番目が、愛しい先輩の席である。
 が、其処にウルキオラの姿はない。
 ――まぁそんな予感はしていたけど。片想いまっしぐら……。
 それでも、イールフォルトは落ち込みを隠せなかった。最も、今は着任という晴れがましい出来事の最中、明らさまに落ち込んでいる表情をしていてはいけない。周りにいる誰もが、イールフォルトの落ち込みに気づかなかった。